第10話 : 『招く手』

【体験者:@管理人】 2006/05/19 公開作品


長野県軽井沢。

秘湯として名高いこの土地で私の身に起きた、とある出来事…。
これはそんな体験談です。

05年秋、私は軽井沢を訪れました。
日頃の疲れを癒す目的とサイト取材も兼ねた一人旅でした。
予約しておいた旅館へ到着し、私は部屋へと案内されました。

温泉郷から眺める東御の山脈。

秋の紅葉が見事な彩りを見せ、それらを袖に従える山々の雄大さが威容を誇る、
まさに日本の秘湯と呼ぶにふさわしい景色がそこには広がっていました。

大自然を満喫し、喧騒を忘れた穏やかなひと時を過ごしていました。

やがて日も暮れ、私は遅い夕食を平らげながら地図を取り出しました。
翌日の夕方にはこちらを出発し、東京へ戻らなければならないからです。

私は、遠出した時の帰り道はいつも決まって一般道を使う事にしています。
今回も、帰りは一般道で帰る事を予定していました。

詳しく道を調べているうちに、興味を惹かれた峠道が目に飛び込んできました。

クネクネと峠を登って行き、その頂上で新道と旧道に分かれているようです。
旧道の先にはトンネルがあるようでした。
トンネル好きの私なので、迷わず帰りはそこに立ち寄ってみる事にしたのです。

翌日夕方。

旅館を出た私は、その足でさっそく峠道へと向かって行きました。

かなり急な勾配の道で、度重なる九十九折れを何度も繰り返し、
およそ数キロは走り抜けたかと思った時、ようやく新道と旧道の分岐点に出ました。

旧道の入口には放置車が二台、草むらに覆われるように残されていました。

私はそのまま旧道を進んでいきました。

しばらくは舗装道路が続いていましたが、やがて未舗装区間に差し掛かりました。

『まいったな…やっぱり引き返した方が良いかな…』

しかし、Uターンをするにも離合個所は無いようです。
仕方がないので、私は行ける所まで行ってみてからまた考えようと思い直しました。

相変わらず、路面は未舗装状態が続きます。
いや、前にも増して路面が悪くなってきているようです。

タイミングの悪い事に、小雨がパラついてきました。
山の天気は変わりやすいとは言いますが、この時は本当に急な変化でした。

多少の後悔を感じつつも、頂上のトンネルを目指して進んで行きます。

やがて、私の目に目的のトンネルが飛び込んできました。

鬱蒼と生い茂った雑草の中から覗かせる不気味な抗口。
寂れ果てて赤黒く変色しているコンクリートの壁。

予想していたよりもはるかに小さく、気味の悪いトンネルでした。

中でカーブでもしているのか、入口から出口を見通す事は出来ません。
更に、天候が悪化してきた関係もあるのか、トンネルの口からは白いモヤが断続的に流れてきます。

一瞬、この世のものとは思えないその異様な佇まいに圧倒されてしまいました。

いったん車を降り、恐る恐る徒歩で近づいていきます。

"ピチャッ、ピチャッ…"

トンネル入口辺りは漏水が激しいようです。

路面も両端に水溜りが出来ており、この段階で徒歩での進入は断念しました。

再び車に乗り込みトンネルの中に入ります。

薄暗いトンネルの間口がヘッドライトに浮かびあがりました。
いつの間にか、辺りは闇に覆われ始めてきます。

ライトが当たる範囲が極端に狭くなり、トンネルの奥まで照らしだしています。
予想通り、トンネルは中でカーブしていたようです。

徐々に徐々にゆっくりと進んで行きます。
私の車の走行音が狭いトンネルの中に反響し、轟音のように響き渡ります。

程なくして、例のカーブ区間に差し掛かりました。
ゆっくりと左カーブを切った、その途端…。

私の車のヘッドライトがスゥッと消えたのです。

まるで何かに魅入られたかのように、カーブを切った途端に消えたのです。
スモールライトだけを残して、突然消えてしまったのです。

私は慌ててブレーキを踏み、車を急停車させました。

『…!?』

何度いじっても、ヘッドライトは消えたままなんです。

真っ暗なトンネルの真ん中で、私はただ一人取り残されました。
スモールライトに照らされて、トンネルの両壁が微かにボウッと浮かびあがっています。

その時です。

2〜3メートル先、向かって助手席側の壁の辺りに、何かが動いているような気がしました。
壁から伸びている何かが…。

…人間の手のように見えました。

それが不規則なリズムでユラユラと揺れながら、薄暗い光の中で蠢いているのです…。
何か、まるで手招きでもしているようなリズムで…。

『…』

何故か、怖いという感覚はありませんでした。

しかし、見てはならない何かを見てしまったような気がしたのは確かです。

『見てはいけない!』

直感的にそう感じました。

その時、私の右手の平に激痛が走ったのです。

"手が攣る"

この表現が正しいかもしれません。

黙っていても痛みが増すような、激しい痛みが襲ってきたのです。

恐怖と混乱からでしょうか…油汗が出てきました。

相変わらず、助手席の方に目を遣る事は出来ません。
いや、怖くて出来ないのです。

絶対に見てはならないんだ、何故かそう自分に念じていました。

その時です。

不意に体が軽くなったような気がしました。

何かに背中を押されたかのように、急に体が前にのめったのです。
右手の痛みも、いつの間にか消えていました。

急にヘッドライトが点灯しました。

辺りを一気に照らし出し、トンネルの出口までも見通せるようになりました。

無機質なコンクリートの壁、相変わらずの漏水、荒れた路面…。
トンネルに入ったばかりの頃と変わりない状況が続いています。

我に返った私は、そのまま車を走らせトンネルを抜けました。
峠を下り、新道に合流します。

既に何台かの車が行き交っていました。

そこはまさに、日常生活のごく当たり前な一つの場面に過ぎませんでした。
旧道トンネルで私の身に起きた出来事など、錯覚だったかと言わんばかりに…。

以後、私の身には何の異変も起きませんでした。

その後、このトンネルについて色々と調べましたが、
私が体験した出来事を裏付けるような情報を得る事は遂に出来ませんでした。

しかし、私は何の根拠も無いままに確信しているのです。

あのトンネル…あそこには、あの時、確かに何者かが居たはずだ、と…。