第9話 : 『見えざる者』

【体験者:@管理人】 2005/07/02 公開作品


霊峰・富士の麓、山梨県上九一色村一帯に広がる原生林。
この地は青木ヶ原樹海と呼ばれ、観光名所として広く世間に知られています。

氷穴・風穴などを擁し、風光明媚な自然散策コースは人気が高く、
週末などは多くの家族連れなどで賑わいを見せています。

しかし、その一方でこの原生林は違った顔を持っている事も歴然とした事実です。

松本清張の著作『波の塔』の舞台となった事で一躍有名になったこの樹海では、
年間で数十体もの自殺遺体が発見されており、その姿は凄惨を極めたものだといいます。

"青木ヶ原樹海とはいったいどんなところなのか?"

私は1999年夏、この地に初めて足を踏み入れました。

取材や探索といった仰々しいものではなく、少しだけ覗いてみようといった感覚でした。
時刻は夕方に差し掛かった頃、まもなく陽も暮れかかろうかという時刻です。

この話は、そんな時に体験した話です。

私は仲間5名と一緒に、とある公営駐車場から樹海内に入って行きました。
ここは日没を迎えると行き交う車もほとんど無くなってしまうような場所でしたので、
私たちのような目的の人間には都合の良い場所だったのです。

手には懐中電灯、非常用の為に少量の食料を持って出発しました。
当時は樹海についての知識もほとんど無く、それ位で充分だろうと考えていたのです。

樹海に分け入った私たちは、遊歩道を道なりに進んで行きました。
ある程度きれいに整備されており、正直なところ、

"これが怖いというイメージの付きまとう樹海なのか!?"

というぐらいに拍子抜けしていました。

ただ闇くもに歩を進め、やがて私たちは、とある分岐点に差し掛かったのです。

右に進めばそのまま遊歩道が続いています。
左に進むと…僅かに道の原型を留めた山道が確認出来るような状態です。
ボロボロに錆付いた鉄柱が傾き、かつてそこが封鎖されていただろう事を物語っています。

私たちは迷わず左の山道を進んで行く事にしました。

少し進んでから感じた事は、凄まじいまでに足場が悪いという事です。
剥き出しになった溶岩の上には苔がへばり付き、木々もまた無造作に横たわっており、
まるで先へ進む事を拒まんとするばかりな状況が続いています。
私たちはそれらを越えて先へ先へと進んで行きました。

どれくらい進んだでしょうか?

私たちは不意に広い広場のようなスペースに出ました。

そこから先は道は途絶え、更に劣悪な足場が地面を覆っており、
それ以上進む事はどう考えても不可能な状態です。

『こりゃ駄目だね、ここまでだね』

誰かがそう言った一言をきっかけに、ここまでで撤収する事にしました。
今歩いて来た道をそのまま引き返し、駐車場まで戻って行く為に再び遊歩道を目指します。

溶岩に張り付いた苔に足を取られながらも何とか先を急ぎます。

その時です。

私の目の隅に、何かがチラッと写り込みました。
いや、正確に言えば、写り込んだような気がしたのです。

『…?』

完全に陽は暮れ切ってはいませんでしたが、樹海内は薄暗く、私たちは懐中電灯を付けていました。

『気のせいかな…』

後ろから付いて来る仲間の事もありますので、気のせいという事にして先を急ぐ事にしたのです。
やがて先ほどの分岐点まで辿り着きました。
後は遊歩道を道なりに歩いて行けば、駐車場まで戻る事が出来ます。

何となく感じていた緊張の糸もプッツリと切れ、私たちは雑談をしながら遊歩道を歩いて行きました。

再び、私の目の隅に、何かがチラッと写り込みました。

『…?』

今度は、そちらの方向に意識を向けて目を凝らして見たのです。
その光の先に…。

誰かが脱ぎ捨てていったかのようなボロボロのシャツが、木の枝に引っ掛かっていたのです。
それが風に吹かれて、薄気味悪い姿を晒しながら揺れているのです。

『気味悪いもんだよな…』

誰かがそう言いました。

その時です。

枝に引っ掛かったシャツを眺めていた私の耳が僅かな異変をとらえました。

"ギィィ、ギィィ、ギィィ…"

私たちの足音とは明らかに違う、何かがきしんだような音が聞こえてきました。
古いドアを開け閉めした時に出るような、きしんだ音なのです。
それが断続的では無く、等間隔で一定のリズムを保ったまま、樹海の奥深くから聞こえてくるのです。

既にドップリと陽も暮れており、辺りは漆黒の闇に包まれています。

『嫌だな…』

音の正体が解らない気味悪さを感じながらも、私は動物か何かだろうと自分に言い聞かせました。
仲間たちには、この音は聞こえていないようでした。

相変わらず、気味悪い音は聞こえ続けてきます。
我々に近づいてくるでもなく、遠ざかるでもなく、ずっと聞こえ続けているのです。

私は、懐中電灯で樹海の奥を照らしてみました。
ボンヤリと拡散した光が、無数に立ち並ぶ木々や岩場を照らし出します。

『…!?』

その光の中に、一人の人間らしき姿が浮かび上がりました。
青と黄色のパーカーに身を包み、農夫が被るようなほっかむりをした姿で…。

『えっ!?』

驚いた私は、眼をこらして見直してみたのです。

そこには誰も居ませんでした…。

先ほどと同じ、無数に立ち並ぶ木々や岩場があるだけなのです。

『…』

30メートルほど先に、確かに人間が立っていたのです…。
表情は解りませんでした。
しかし、正面から私を見据え、睨みつけていたような眼ははっきりと記憶にあるのです。

おそらく目の錯覚だと思います。幻を見たのだと思います。
しかし、私はゾッとする感覚を抑え切れませんでした。

全身が総毛立つ…そう言えば適切なのかもしれません。
体中の血が逆流するような、凄まじいまでの激しい悪寒を覚えていました。

仲間に知らせる事で混乱が起きるかもしれないと咄嗟に判断した私は、
恐怖心を抑えながらも何事もなかったかのように装い、再び遊歩道を歩き出しました。
後ろからは仲間たちがゾロゾロと着いて歩いてきます。

やがて私たちは駐車場まで戻ってきました。

『結局、樹海って何も無いんだね』

誰かが発したその一言が合図になったかのように、私たちは帰る事にしたのです。

"気のせいだ、気のせいに違いない。目の錯覚だ"

私は自分にそう言い聞かせながらも、薄ら寒い気持ちを抱えたままハンドルを握り帰路を急ぎました。

そして河口湖ICに近づいた時、仲間の一人が突然吐き気を催したのです。
私は慌てて車を停め、彼を車から降ろして介抱に当たりました。
道端の草むらに向かって彼は嘔吐を繰り返し、かなり苦しそうな様子でした。

先ほどの体験もあって、私は何となく気になり、

『樹海に居た時、お前、何かあったのか?』

と彼に尋ねてみました。
彼の答えはこうでした。

『お前、何か感じたか?シャツがぶら下がっていたところに誰か居なかったか?』

言葉を選ぶように遠まわしに私に尋ねる姿から、彼が怯えている事が手に取るように解りました。

もしかしたら、彼も私と同じものを見たのではないか…。
とてもではありませんが、私はそれを口に出す事は出来ませんでした。

『…』

私はとても怖くなり、一刻も早くこの場を立ち去りたい衝動にかられました。

『こんな所に居たらまずいよ!早く帰ろう!』

そう言う私の言葉を遮るように、彼がこう続けたのです。

『…あそこで何かが見えてしまった気がする…、憑いて来ているのかもしれない…』

そう言うと、彼は再び激しい嘔吐を繰り返したのです。

得体の知れない恐怖を感じた私は、彼が落ち着くのを待ってから車に乗せると、
ひたすら無心でハンドルを握り帰路を急ぎました。

他のメンバーにはこの出来事は伏せる事にして、それぞれの家まで送り届け、その日は解散しました。

後日、私は彼から連絡を受けました。
彼の話では、帰宅したその日から三日三晩に渡って同じ現象に見舞われたそうです。

それは、自宅の風呂場の鍵が独りでに閉まってしまい閉じ込められたという事が続けて起きたそうです。
そして、その時に限って妙な音が聞こえてくるという事でした。

"ギィィ、ギィィ、ギィィ…"

という音が…。
古いドアを開け閉めした時に出るような、きしんだ音が…。

そして…。

彼の右腕には誰かに引っ掻かれたような傷跡がついていたそうです。
何かに後ろから覆いかぶさられ、引っ掻かれたような傷跡だったとか…。

後日、彼に会った時、彼は不安そうな顔を隠しきれずに私にその事を訴えてきました。
当然、樹海での出来事と、彼自身の体験を絡めて考えている事は容易に想像が付きました…。

私たちのその後に、特に大きな出来事は起こりませんでした。

何かが彼に憑いて来てしまったとも考えられるのですが、それも今となっては解りません。

あの時一緒にいたメンバー全員、今でも元気に生活しています。
彼も、そして私も、何も変わった事もなく元気に生活しているのです。

夕暮れの樹海での体験。

あの出来事はいったい何であったのか…。
そして、私と彼だけに見えてしまった"あの人"は、何を訴えたくて姿を見せたというのでしょうか…。